メッセージ from フォーラム
<プロローグ> 再開にあたって
2023.3.23
「メッセージ・フロム・フォーラム」を4年ぶりに再開します。
このコーナーはかつて、毎月上映する映画の中から特におすすめしたい映画を紹介するコーナーとして、フォーラム代表であった私ができるだけ試写を観て書き進めてきました。今回再開を思い立ったのは、作品の紹介ではなく、フォーラムを作った話を書き残そうと思ったからです。
実は去年の夏に脳梗塞を患いました。幸い少し呂律が回らなくなった程度で済みましたが、これは運がよかっただけで、半身不随や、そのままこの世とおサラバしてもおかしくない年齢なのだと気付きました。
だから私しか知らない“フォーラムを作った話”を書き残そうと考えた訳です。
いくら生々しいお話を書いても、当時の担当者は退職したか亡くなった方がほとんどです。でも、ある銀行の担当者が株主全員の連帯保証があるならお貸ししますと言ったのは事実ですし、銀行が窓口になれば5000万の環境衛生金融公庫融資が可能なのに、国民金融公庫しか相手にしてもらえず、融資額が3000万に限られた事実は消えません。
さて、フォーラム山形は1984年7月に山形市大手町に生まれました。母体となった映画サークル「山形えいあいれん」が活動を始めたのは1979年12月。しかし、フォーラムの構想を育てた映画サークル“映研”が米沢で活動を始めたのは1972年春です。フォーラム山形は今年の夏に開業39周年を迎えますが、構想した1974年から49周年になります。
4年前の9月に、えいあいれんの活動から参加した宮澤啓君が亡くなりました。昨年10月にはフォーラムの社員第一号だった高橋卓也君が亡くなりました。二人共、フォーラムの建設や基礎づくりに尽力し、山形ドキュメンタリー映画祭の事務局長を務めた優秀な活動家です。私が老後をおだやかに過ごすお茶飲み友達の有力な候補を相次いで二人も亡くし、私自身も旅立ちの準備にかかろうという訳です。
今年2月に、代表を退きました。息子と娘に事業継承しました。フォーラムを作った当時は、こんな不安定な事業は私一代限りと勝手に決めていました。それが、中学校の音楽教師をしていた長男が8年間務めた教員を辞めて見習いに入ったのが16年前。その2年後に、ニューヨークでジャパン・ソサエティという非営利団体で映画上映を担当していた娘が帰国し、東京に常駐してフォーラムシネマネットワークの全番組を二人で担当しています。
コロナ渦で休館したり売上が激変したりする中で経営の実務を担当して乗り切ったのは息子と娘です。フォーラムはいつの間にか、こんなに丈夫な会社になっていたのですね。
昨日、「バニシング・ポイント」観ました。デジタルリマスター版です。こんな映画まで上映できるフォーラムはまさに想定以上です。
フォーラムは何を目指してつくったのか?具体的なにどんな事が起こったのか?次回からゆっくり振り返ります。
2023.3.23
フォーラムシネマネットワーク 会長 長澤裕二
最近の記事
2023.4.5
儲からない映画を上映する映画館をつくるなら、これはライフワークになる!
2023.3.23